2023年8月14日。お盆真っただ中、非常に強い勢力の台風が近畿地方を直撃しようとしていた。
2023年8月14日。お盆真っただ中、非常に強い勢力の台風が近畿地方を直撃しようとしていた。明日はJRをはじめとする鉄道各社が計画運休を発表。交通機関が動かないので、ほとんどの商業施設が次々と休業を発表。夜更けとともに次第に雨が強くなってきた。明日の営業はどうなることだろうか。考えてもしょうがない。神のみぞ知ることだ。おとなしく寝ることにしよう。
早朝6時過ぎ、私は激しく振動するマンションの窓ガラスのガタガタという音で目が覚めた。カーテンを開け、外の様子を見てみると、どんよりとした黒に近い灰色の雲から、大雨が降っていた。テレビをつける。名前は知らないが見覚えのある顔のレポーターがレインコートを着て、台風の現在の状況を大げさな口調で伝えている。
いつもより早めに家を出た。午前中から大雨で道路は川のようであった。水溜まりを避けるようにして慎重に大股で歩く。前を歩く女性のビニール傘が強風で裏返しになった。ほとんどのお店がシャッターを下ろし、人通りも国道の交通量も少ない。唯一営業していたラーメン屋の裸電球に照らされた看板がいつも以上に目立っていた。通勤路にある交差点が国道1号と2号の境界線だということをふと思い出した。信号待ちをしていると、目の前を通過したトラックが盛大な水しぶきを上げた。多少のしぶきはこの大雨の中ではほとんど気にならなかった。お店に到着すると、そこにいたのは店長だけだった。普段いるはずの社員たちは誰もいない。仕込みはなしで、キッチンの社員たちは営業のみに参加するとのこと。いつもは営業前でも賑やかなお店が静かでなんとなく居心地がよくない中、いつものように事務作業や掃除を進めていく。営業に関する電話での問い合わせが多いかと思っていたが、電話はほとんど鳴らなかった。
オープン4時間前。夜には台風が過ぎ去るとの予報から店長が下した決断は、最少人数で営業を決行することだった。社員を含めてホールスタッフ3名。キッチンスタッフ3名。総勢6名での営業が幕を上げた。予報通り、オープン時には大雨から小雨となった。オープンからしばらくは外国人旅行客1組の来店しかなく、クローズまでこの調子でいくのかと誰しもが思っていた。ところが、18時を過ぎた頃から、どこからともなく次々とお客様が来店された。ホールスタッフはマネージャーの私と店長と、十年戦士の大ベテランアウトバッカ―の最強チームだ。しかし、いくら最強メンバーとはいえ、3人では限界がある。瞬く間に手が回らなくなってしまった。予約ではないお客様には、スタッフが少ないこと、提供できないメニューがあることを、店長が丁寧に説明し、客席はガラガラでも体制が整うまで、バーカウンターで待っていただいてから案内をした。
私はお店の半分を任された。サーバーを久々にやるからなのか、それとも歳を取って体力落ちたのかわからないが、体が思うように動かない。もどかしさを感じながら三つ先のことまで考えて行動をした。タスクを一つ終えると、またすぐに次のタスクが出てくる。体も頭もフル稼働だ。いつの間にか体も動くようになってきた。全身から汗が噴き出ているのを感じ、シャツの背中が徐々に重くなっていく。額からも汗が流れ落ちてくるが、拭いている暇などはない。とにかく動きに動いた。オープンからラストオーダーまでは3時間。時間が過ぎていく感覚が全くなかった。今思い返してみても、その3時間の細かな描写は断片的にしか思い出せない。20時の最終入店が終わり、やっと時間の感覚が元どおりに戻った。タイムスリップをしていたような不思議な体験であった。
台風のような大荒れの営業がなんとか無事に終わり、エントランスのシャッターが下りた。やりきった。気持ちがいい。周りを見渡してみると、みんなが笑顔であった。みんなヘトヘトに疲れているはずなのに、誰一人不平を口にする者はいなかった。お客様には待っていただくなど迷惑をかけてしまったので、決してハナマルの営業ではなかった。というか甘く採点してもサンカクだ。そんなんだから、声を大にして言うには憚られるが、とにかく楽しかった。他のメンバーもきっと同じ気持ちだったと思う。結局この夜は、78名のお客様に温かい料理とサービスをお届けすることができた。ご家族やご友人との大切な集いの場を提供することができた。私の理想は、“街のランドマークになるお店”を築いていくことだ。ランドマークには半年や一年ではなれない。長い年月が必要だ。その過程には、晴れの日もあれば、必ず雨の日もやってくる。リスクヘッジが重要視されてきている現代社会で、台風の中での営業には賛否両論があるだろう。しかし、営業を実際にやってみて、私は良かったと思った。なぜなら、お客様も私たちアウトバッカーも、皆が幸せを感じられたからだ。私が担当したお客様の中に、誕生日でいらっしゃった初老の美しい白髪の外国人女性がいた。何度も何度も笑顔で「Thank You」と言っていただけた。お客様に喜んでいただくことが私の喜びなのだと改めて気がつくことができた。
お店の勝手口の鍵を閉め、北新地の街を店長と二人で歩いて帰った。雨は何事もなかったように止んでいたが、空気は湿気を帯びていた。飲み屋街の北新地のお盆期間は、ただでさえ人が少ない。それに台風が重なり、人どころか猫すら歩いていなかった。店長がいつものようにコンビニでビールのロング缶をご馳走してくれた。缶のプルトップをプシュと空けたちょうどその時、再び小雨が降りだした。右手に缶ビールを持ち、左手で傘をさした。キンキンに冷えた麒麟ラガービールの苦みとともに、爽快な炭酸が勢いよく喉を通っていった。「旨い!」思わず声が出た。普段でも仕事終わりのビールは旨いが、この時の麒麟ラガーは格別であった。たわいもない話をしながら時折仕事の話にもなる。店長は直前まで営業をするかどうか迷っていたそうだ。「お前がやって良かった、って言ってくれて良かったわ。」と、ポツリとつぶやいた店長の横顔は穏やかな顔をしていた。
翌朝、出勤しPCでメールを確認すると、本部から転送された昨日のお客様からのメールが一通届いていた。“台風で店員さんが少ない中、スタッフの方々が皆、神対応でした。外国のお客様が多かったのですが、自分たちもお客ながら、梅田店スタッフの対応に誇らしく思えました。外食する機会は多々あるのですが、ここまでの神対応は本当に素晴らしいと思えました。最寄りは池袋が近いのですが、アウトバックへまた行きたいと思いました。”
メールを読みながら、私の頭の中では幼少期に見たテレビ番組のまんが日本昔ばなしのエンディング曲“にんげんっていいな”がループした。嬉しいという感情よりも、感謝の気持ちの方が大きかった。人は人によって磨かれる。私は、お客様に育てられ、仲間に支えられ、ご縁のある方々から学びを得ている。私が、充実した人生を送ることができているのは、周りの人たちのおかげだ。生きているのではなく、生かされている。それなのに、自分ひとりで大きくなった気になってしまう時がある。すべての出来事はギフトなんだ、と誰かが言っていた。私は台風から大切なことを教わった。すべての人に感謝を捧げ、この物語を終えることにしたい。